終わりを見つめながら快楽を選ぶ

実は先日、映画館で『チェンソーマン レゼ編』を観てきました。
原作は連載初期からずっと追いかけて最新まで見ています。
でも、映像としてスクリーンで観ると、同じ物語でもまったく違う感情が生まれるものですね。
本編とは少し離れた場面ですが、アキが天使の悪魔を風圧から守るために掴むシーンで、
天使の悪魔が「死ぬなら死んでもいい」「今日が死期だったんだ」「大丈夫、死ぬ覚悟はできている」
そう言ってアキの手を振りほどこうとする瞬間、胸が締めつけられて涙がこぼれました。
原作では何とも思わなかったのに、
映画館という“生きた時間の中”でその言葉を聞くと、自分の中の何かが静かに震えたんです。
「いつか終わる」と分かっているからこそ、今を全力で生きたい。
私がSMの世界に入ったのも、まさにその想いからでした。
一度きりの人生を、心と身体の奥まで使って感じ尽くしたい。
そして心のどこかでは、「来世もまたこの人に調教されたい」と思えるような、
そんな関係を築きたい――そんな夢のような気持ちでこの道を選びました。
けれど最近、少し考えることがありました。
私にとって“M女としての寿命”は、肉体の寿命や健康寿命とは違うかもしれない、と。
年を重ね、老いていった時に、
「もう可哀想でできない」と誰かが感じる瞬間が来たら、
そのとき私は“M女としての死”を迎えるのかもしれない。
SMは1人では成立しない世界だから、
誰にも必要とされなくなったその時、私は静かに消えるのだと思います。
でも、それはきっと今日ではない。
私はまだ、この身体と心で誰かに必要とされたいと願っている。
だから今日もこうして、言葉を綴ります。
自分が生きている証として。
そして、私の中の“死ぬ覚悟”を確かめるために。
